大黒弘慈
報告要旨
マルクスの論理を忠実に理解しようとしながら、しかも忠実になればなるほど『資本論』に示されたマルクスの叙述とは違った展開を示すことになるというのが、宇野に固有のスタイルであったとするならば、すでに体系として完成したものとして宇野理論の跡を対象的に模写するだけでなく、宇野理論自体を、いまだ形成途上にあるものとして「方法的に模写」してみることも、その方法的特質を炙り出す一つの有効な方法たりうるだろう。現代資本主義の変貌に対して、原理論を据え置いたまま段階論、現状分析のみでこれに応接するのではなく、宇野自身が当時の思想状況においてなぜ三段階論を構想せざるを得なかったのか改めてたどりなおしてみることによって、原理論をも含めた宇野方法論そのものを再考してみるという道筋も、宇野を現代に生かす一つの方途ではあろう。
そもそも宇野理論の母体は日本資本主義論争にある。この批判を通じて宇野は、日本資本主義の特殊性を、日本固有の伝統に還元するのでもなく(講座派)、普遍的な資本の原理に拡散させるのでもなく(労農派)、それを世界資本主義における後進資本主義国に固有の発展のいわば「典型」として把握したのであった。だが日本資本主義を世界史的同時代性の中において理解するこのような方法とは別に、宇野はなぜ「純粋資本主義」という理論的仮想体を改めて構想しなければならなかったのか。あるいは、宇野は一方で資本主義の「純粋化」過程が現実に確かに存在したということを念頭に置きつつ、他方ではそれが決して完成することなく却って「逆転」することを心得ながら(否、心得るがゆえに)、なおも「純粋資本主義」という仮想体を想定する。これはどういうことか。
攪乱的要素を入れつつこれを除去するという方向ではなく、攪乱的要素が除去されようとするにもかかわらずそれは除去され切らないという意味が、あたかも「純粋」という言葉には籠められているようであり、純粋化の行き過ぎはかならず逆転を呼び起こすという近代の二面性・市民社会の二面性がそこに透けて見える。原理論には、段階論を介して現状分析に向かう際の理論的基準という以上の、普遍的な資本の原理そのものに潜む「矛盾」の摘出という課題が同時に負荷されていたようにも思える。日本資本主義論争の批判を通じて日本を歴史的に貫く固有の実体が疑問視されたのだとするなら、純粋資本主義論は、同時にオリジナルとしての西欧資本主義そのものの正統性を疑うものでなければならない。
見方を変えれば、宇野の現状分析によってはじめて、戦前農村の停滞性に起因する日本資本主義の二重構造、近代日本の光と闇の逆説的共存が論理的に解明されたのである。その二重性はまた後進国日本に固有のものではなく、普遍的な資本の原理そのものにも形を変えて見出しうるものとはいえないか。経済政策論の裏にあるスピノザ『エチカ』の心身二元論、宇野信用論(資金論)の裏にあるバジョット『ロンバード街』の中央銀行と自由銀行の両論併記、のみならず戦後『資本論研究』の座談会で明らかにされた宇野価値形態論の「欲望をもつ人間」もまた、人間学的マルクス主義、あるいは市民社会の担い手として美化された自立的経済人とは異質のものであったはずだ。使用価値に対する欲望に一元化した(新)古典派的「経済人」ではなく、価値表現・価値実現の欲望と使用価値に対する欲望との「矛盾」こそが、近代に刻み込まれた分裂として強調されなければならない。
本報告は、宇野が影響を受けた左右田喜一郎のような同時代人をも参照しながら、近代の二重性、貨幣の二重性をへて、「経済人」そのものの二重性にまで議論を進めることができればと思う。
基調報告全文:宇野理論形成の思想的背景-純粋と模倣-(PDFフォーマット)