今日における宇野理論継承の問題点―海外と日本
関根友彦
マルクスの知的遺産は大別して「社会主義思想」と「経済学批判」に二分されるが、後者は専門家以外には理解しにくいため、一般的知識としても学術研究においても前者だけが過大に突出し、後者は殆ど無視されている。それと正反対の立場をとるのが「宇野理論」であり、だからこそ其処には現代的意味が認められる。だがこの点はよく理解されていない。
特に、海外における「宇野理論」受容の妨げとなっている理由の第一は、原典の翻訳が殆どなされていないことだが、第二には、従来の経済学研究がマルクスを完全に排除しているという(もう1つの)事情がある。欧米におけるマルクス・ルネサンスと言ってもそれは経済学外での話であって、経済学への実質的な影響はない。経済学を含め社会科学はもともと「近代主義」を謳歌するために創られたものであるから、近代批判者のマルクスを排除するのは当然である。だからこそ「近代経済学」批判が必要なのだが、「マルクス主義経済学」者は一致してそれをサボり、自らは安全地帯に逃避しつつ、外部から正統派経済学に「犬の遠吠え」的悪評を浴びせかけるに留っている。それゆえ近代経済学は既に末期的症状を呈しながらも、誰一人これに鉄槌を下すものがいない。
いやしくも「宇野理論」発祥の地である日本では、こうした惨状は避けたいものであるが、実情はもっと悪い。外国産の「マルクス主義経済学」「レギュラシオン」「政治経済学」「制度派経済学」など、何れも「原論」を無視する文字通りの「俗流経済学」が次々と輸入・伝承され、マルクスが示した「経済学批判の精神」はその片鱗すらも見えない。家元制度の根強いわが国では、「宇野学説」と雖も実はその核心が理解さないまま、形式や外見のみが継承されて来たためであろうか。
次の点に注目したい。(1)原理論は「資本による資本主義の定義」であるから「分析の用具」ではなく「判断の基準」にしかなり得ない。(2)こうした「原論」に対してのみ「段階論」は意味をもつ。(3)「原論」と「段階論」の関係が曖昧だと、宇野が第一次大戦後の世界経済を「社会主義への過渡期」とした意味が明確に理解できない。以上三点の押さえがいい加減では「宇野理論」の核心を掴んだことにはならない。結局、輸入の「俗流経済学」に振り回されて、「宇野理論」とは無関係な「現代資本主義」変貌論に終始するだけで、世界経済の真相は少しも見えてこない。問題は「宇野理論に限界がある」のではなく「宇野理論の浅薄な理解」にあるのではないのか。
参照:マルクス経済学の試練と再生(PDFフォーマット)