経済学研究の窮極目標」というアポリア
半田正樹
「経済学の研究は,方法論的には不明確ながらも,実際上は原理論と段階論と現状分析とに分化してきているのであって,その窮極の目標は現状分析にあるといってよい」。これは,宇野が『経済学方法論』で主張した一節である。宇野は,このあと「原理論や段階論は実践活動には全然役に立たないというわけではないし,また現状分析ならば直ちに実践活動に役立つというわけでもない」(著作集,第9巻,55頁)と続けたことはよく知られている。
そこで,あらためて考えてみたいのは,「経済学研究の窮極の目標」が「現状分析」にあるのは,「現状分析」が「実践活動に役立つ」ことを前提とする限りにおいてである,と解釈するのは正解かということである。あるいは,正解であるとしてその含意は何か,という点である。
宇野は,「理論と実践(政治的実践)」を明確に区別した。宇野は経済学の対象について,したがって「現状分析」の対象について,あくまでも客観的に認識し,何人(なんぴと)にも理解される論理を組み立てることを追求したが,その作業の果てに得られた成果を,資本主義「没落」=資本主義の廃絶に直結させることはしなかった。
しかるに宇野は,第一次世界大戦とこれを契機に実現したロシア革命後の世界史を,社会主義に対抗する資本主義の歴史という観点からとらえ,社会主義への「過渡期の資本主義」という規定を与えつつ,むしろ世界経済論としての現状分析の対象と位置づけた。ここに「社会主義の必然性」を前提としたという意味においては,宇野が「現状分析」を資本主義「没落」についての透視装置としてイメージする姿勢を垣間見せたとも考えられる。この点については,例えば「マルクスが,社会主義者として永年にわたって経済学の研究に従事したのもそのため(=政治的主張の科学的基礎づけ)であり,・・・資本主義社会の諸問題をたんに対処療法的な政策で糊塗するために経済学を使おうというのではない」(同,404頁)という叙述とも平仄があう。
そこでわたしたちは,「経済学研究の窮極の目標」→「現状分析」→「(政治的)実践」という系について,現時点でこれをどのように考えるのかという“アポリア”の前に立たされることになる。一方では,「ロシア革命70年の顛末」を知り,「社会主義」というオルタナティブ社会への構想が多様化している――したがって,多様化=分散化する分,そのダイナミズムが希薄化している――状況や,他方では,「グローバル資本主義」の“暴走”がとめどなく続く状況の中で,その“アポリア”と対峙せざるをえないということである。
わたしたちが,「現状分析」に携わるのは,「(政治的)実践」を担う「何」かに対して「科学的基礎づけ」を提供するためなのだろうか。もしそうだとすれば,提供先ははたしてあるのだろうか。また,もし「経済学研究」を踏まえて(?),自ら「(政治的)実践」と関わるべきという考えが主張されるとすれば,それは現実的だろうか。こうした点は,いずれ「(政治的)実践」をヨリ広くとらえることも必要となるだろうことを示唆する。
「私の発言」では,宇野シューレ第2世代(=宇野の謦咳に接した世代)と第3世代(=第2世代に教えを受けた世代)以後の差異が,いわば「社会観の差異」としてとらえられるのではないか,という仮説的視座に立ちつつ,この問題(=“アポリア”)を考え,問題提起を行いたい。