私の発言

              宇野理論と現代資本主義

吉村信之

 宇野弘蔵氏、逝いて30年。

 資本主義経済に流れる論理性・歴史性・空間性を、「原理論」・「段階論」および「経済学の窮極の目標」たる「現状分析」として統一的に分析する宇野氏の卓抜な体系の創出は、『資本論』へと結実したマルクスの経済学の最高水準での継承・発展の一つであった。しかし20世紀末葉からの現代資本主義の変容を目にするとき、宇野体系には幾つかの点で、その一層の豊富化を図る作業がなお求められている。

)「段階論」および「現状分析」について。1990年代以降、大量の経常赤字を膨張させつつもアメリカ経済が情報通信産業や金融部門で新たな「復活」を遂げてきたことは、「現状分析」における大きな課題である。しかしその基準となる「段階論」においても、第一次世界大戦において段階論を打ち止め、ドイツ資本主義を帝国主義段階の主役として過大評価した宇野氏の歴史認識は、今日から見て適切だっただろうか。後の展開からすれば、氏が「投機的」資本主義として特徴付けたアメリカ資本主義の証券的性格こそ、今日のアメリカ発「グローバル」化、金融化を規定している当のものだったのであり、氏の「段階論」は、20世紀以降のアメリカ経済について、より大きな考量の余地を残しているだろう。

2)この点は「原理論」にも跳ね返ってくる。宇野氏がマルクスから衣鉢を継いだなかで、「原理論」の最も大きな支柱となっているのは、①商品貨幣論、ないしその系論としての激発性恐慌論、および②価値論ないし価格理論としての労働価値説、である。何れも原理としては正鵠を得ているが、20世紀末葉から生じた資本主義の変貌――1970年代以降の商品貨幣決済なき貨幣資本の累積――との乖離を埋め、この落差の意味を「原理」の側から明確にしない限り、宇野体系の現実に対する分析力はかなり割り引かれてしまう。

宇野氏は、利子論において信用恐慌の発生メカニズムを解明しているが、今日の投機的なアメリカ型資本主義の興隆を見るとき、これまでの原理的な短期金融市場論としての信用論に加えて、長期金融としての擬制資本論、および空間的要因を扱う為替市場論をも原理的に位置付ける必要がある。利子論をより整合的に豊富化させることによって、従来原理的な恐慌論とされてきた激発的な信用恐慌を生起する諸条件が明確になるのみならず、更に現代的な金融危機や長期不況を分析・解明するにおいても、「原理論」が参照基準を提供する射程は拡くなるだろう。

 商品貨幣論は、過剰資本を整理する貨幣商品の役割――具体的には金商品――を重視する意味で、恐慌論の裏側に位置する。原理的な貨幣商品論は、その最終決済を欠いた今日の資本主義にそのまま適用できる性格のものではないが、諸商品から貨幣が生成する論理的な導出過程をいっそう彫琢する過程で、この商品貨幣が縛りとなって勃発した歴史的な恐慌現象の諸条件の幾つかをも明確化し得る。更にこの諸条件が変形を蒙ることによって、過剰資本の整理が恐慌にまで至らず永く金融部門に不良債権として残され長期不況が生じたり、あるいは商品貨幣の制約が外れることによって、投機的な貨幣資本の過剰が国際的な金融市場の膨張化と新たな形態での金融危機とを惹き起こしたりするといった現代的な現象が現れるという点も、原理の延長上に解明できる。

 労働価値説についても、同断である。従来の投下労働の対象化としての価値論、ないし投入-産出関係が物量的に確定化された労働生産過程から出てくる価値ないし均衡価格は、それ自体として「段階論」や「現状分析」に資することはないだろう。だがそうした確定的な労働編成を背景として、剰余が出てくる諸条件を明確にすることを通じて、「流通費用」のようにこれまで非価値生産的とされてきたものに費やされる諸労働をも、従来の投下労働価値説の外延に位置付ける可能性が拡がってくるだろう。価値論は、従来の堅固な投下労働概念を核として、物的再生産のいわば糊代部分に展開する諸「流通費用」に投じられる諸労働をも、その理論の掌中に収め得ることとなる。こうした価値論は、資本主義の情報化・金融化の分析に資する理論的基準を提供する余地をも拡張するだろう。

「現状分析」において、様々に浮かび上がる資本主義の今日的な諸特徴を理論的・歴史的に明確化しておくための作業は、「原理論」「段階論」に多く残されていると思われる。